家族だから感じること。
正直に話します。
誤解を招くかもしれませんが、これが私の今の正直な気持ちです。
私は認知症になった自分の母がとても怖いです。
理性を失い、私が反応しないと閉めた部屋のドアを叩き続けて大声で脅す母がとても怖いです。
これは4年前から変わらない反応です。
以前は私は母をなんとか落ち着かせる方法はないかと探り、周囲も、家族だからぶつかるのは当たり前、と考えていました。
けれど、脳の変化のためにこうなっていると理解できた今は、とにかく私が物理的に関わることを避け、興奮させないことをずっと続けてきました。
人として、実母ではあっても、私が母を怖いと感じるのはどうにも変えることはできません。
興奮していると五分おきに階段を登ってくる母の足音に身がすくみます。
赤ちゃんの後追いと同じ、と説明もされましたが、赤ちゃんはやがて自立していきます。
私はこれが約4年間続いているのです。
私の心と人生を破壊されているようで、本当に怖いです。
あとは薬で鎮静させるしかありませんが、普段はおとなしい母を、私や家族に興奮して理性を失う行動が怖いからと言って薬を増やす訳にはいきません。
この気持ちを正直にDr.に話したところ、今まで出ていた薬を興奮しやすい時間に合わせて飲むよう工夫してくれました。
今は様子を見ているところです。
認知症の症状は本当に多様です。
父のように、比較的穏やかな、むしろ人から可愛がられるようになるタイプの人、母のようにとても攻撃的になる人、様々です。
母の興奮は私のせいではありません。
私に反応しているだけなのです。
もしかしたら、祖母、もしくは母の姉妹に私がとても良く似ているのかもしれません。
似ているからこそ、感情がざわつくのかもしれません。
そのような話は認知症の介護のポイントとして保健師の方から聞いたことがあります。
それまでの性格と病気のタイプ、にもよります。
弟も言うように。
病気になるまでの母を考えると、どう人として尊厳を守ってやったらいいのかとても胸が痛むのも本当の気持ちです。
ただ。
私のできることはもう無い、私は私で、自分を幸せにし、息子が自立するまで彼を守ることに専念しよう、そして自分の気持ちに正直になり、母の尊厳を守り産んでくれたことに感謝はしても彼女の人生に責任は持たなくていい、と自分を許しました。
もう十分、介護としてはやり尽くしたと思います。
あとは自然に任せて、自分を守り、起こることに対応していけばいいだけです。
どうにかしよう、と思うことは、人の人生に対しておこがましい、とさえ感じます。
これは母が望んだ人生なのだとさえ思うようになってきたこの頃です。
やりたいことは
この頃、母の電話の受け応えが、私の弟から掛かってくる分に対してだけ、微妙な感じになってきてる。
私の息子によると、どう答えようか一日中ずっと練習してるらしい。
大変だね〜〜、ほんと。
それだけでも、大変だね〜〜、なんだけど。
弟から電話が来るたび。
お電話ありがとぉ、お待ちしてましたぁっ。
と、植木等の昔の映画にでも出てきそうな、かつてのご令嬢ばりの声音と言葉で毎回やるのだ。
くねくねと。
ずっとこれをやりたかったんだろうねぇ、と私は息子と話してる。
認知症になって、やっとできるようになったんだねと。
息子はばーばがくねくねと練習してる様子がどうにも気になるらしくて、じっと観察している。
もともと、母は理知的であることを女子のあるべき姿のベストとしていて、娘の私にもそれを求めていた。
色気や身なりを気にするなんてイヤらしいと私は少女のころ常に言われていたし。
それなのにねぇ。
実は母自身が、お色気むんむんをしたかったのかと。
やればよかったじゃないねぇ、父に。
喜んだと思うよ。
父は死んじゃったし、今もってプライドが高すぎて、外に出るのは苦手だし。
いやはや、付き合ってやってる弟もご苦労様だと思う。
最近、弟からの私宛のメールには。
お疲れです。
とまるで業務のような出だしで始まる。
大切にしてあげてくださいね。
支えてくださる外部の方達にはとても感謝しているし、懸命にご家族の介護に関わられてる方達のことも応援したいと常に思ってるけど。
たまに、ああ、私と感覚がズレてるなあと思う事がある。
これは、もちろん、緊急の場合はのぞくのだけれど。
例を上げていけば、本当に些細なこと、なのだけど、私の中ではやはりとても違和感のあること。
どうも、介護を必要としている人が家族にいると、家族も、そしてヘルプに入ってくれる人たちも。
家族もそれぞれの生活を営んでいるということが頭の中から抜けちゃってるのではないか?ということ。
難しく言葉にすれば、介護者もまた主体的に各自の人生を生きる人である、ということ。
緊急事態が落ち着いて、ほぼ通常運転になってもなお、家族の生活がおざなりにされがちなのはどうしてなのかなぁといつも思う。
これは、なんなんだろう?
お年寄りを大切にするのとは意味が違うのじゃないかと私はいつも思う。
それはお年寄りやサポートが必要な人たちから、何らかの力を奪うことでもあるような気もしなくもなく。
ご両親を大切にしてあげてくださいね、とよく声をかけられた。今も、お母様お大切に、とは声をかけられる。
大切にしすぎて腐らせちゃうって、ほら、たまにあるじゃないですか、食べもんなんか。
私の感じてる違和感はあれに近いのかな〜〜。
廃用症候群、なんて、これのような…、あ、独り言です。
正直になる
我が家は両親とも認知症を発症してる。父の場合、母が認知症の専門医に診察を受けていたため、父も同じ医師に往診してもらったほうが便利だろう、となった。
家族は父が認知症だとは全く気がついてなく随分気難しくなったなあ位に思っていたため、医師がMRIでの検査を手配した時も健康診断程度の気持ちでいた。
診断を受け治療が始まった後はとても明るくなり、積極的にデイサービスの日数も増やしたおかげで、私達家族も初めて父のひょうきんな素顔を見ることができた。これは認知症だ、と気がつけたからだと思う。
いくつになっても人は自分は大丈夫、と思いたいもので、私の両親も同じく。
家族も、うちの両親は最後まで大丈夫である、と思いたい。
それは実は幻であって、現実を見ないとならない時期が来る。
家長制度の空気が色濃かった我が家はこれがとても難しかった。
父が否と言えば外部の人たちもそれに従うしかなく、私達家族はとても苦労した。
今の介護では、本人の意思を尊重するのは当たり前のことになってもいるし、父が認知症を発症していると誰も思っていなかったので尚更だった。
幸い、医師は私から見た2人の日常の姿を受け入れてくれた。
もちろん、最初に父から医師に、この娘の話すことは聞かないでくれ、という言葉があったが、科学的な目を持って判断してくれたのだろうし色々なご家族を見た経験値もおありだったのだろう。
外部に対して正直になる決心をする。
認知症介護で家族や家庭が崩壊するのか、なんとか踏みとどまれるのかは、ここがポイントだと思う。
(その時私の背中を押してくれたのは、その医師が、キーパーソンである娘さんが良ければ明日からでもお父様を引き受けます、と申し出てくれた一言でした。両親のプライドのことや長年診察してくださっていた父の元主治医への遠慮、手続きの煩雑さなどで迷う私を励ましてくださりました。
福祉の世界の言葉で表現すると、アウトリーチ、が上手く働いたケースかと思います。)
距離を取る
私が1番気をつけていることは、母となるべく距離を取ること。
これは数年間積み重ねてきた私の経験、母を診察してきた数名の神経内科と精神科の専門医の方達の意見、母を診察はしていないけれど私の話を聞いた神経内科と精神科の専門医の方達から頂いたアドバイス、臨床心理士の方からの私への励まし、プロセスワークが認知症の家族を助けるヒントになるのではないかという私のリクエストで会ってくださったカウンセラーの方の意見などなど。
家族の中の誰かが認知症になった場合の現実的な対応と、その結果、立ち現れる家族間の問題を専門家の目で見た結果を私が受け取ったものの結論です。
私がストレートな話の方が理解しやすい性質なので、みなさんオブラートに包むようなことはせず、クリアに伝えてくださっていると私からは感じます。
患者との距離が近い場合、同調というものが起こることがあります。
同調はホメオスタシス、と言い換えることができるのだとは推察します。
患者と体調や精神が同調していたら、必要な対応を取る客観的な視点も持てません。
今の所、裁判所などの決定がなければ、患者を保護や諸々の決定をする判断は必ず家族に求められます。
家族の体調と精神を守ることは結果、患者本人も守ります。
こう言っている私自身も、母がレスパイト入院やショートステイ、デイサービスさえ拒否しているので、母の安全を確保した上で、そろそろ物理的にも精神的にも一定期間離れる準備をしたいと思っています。
介護の真実
包み隠さず、認知症の介護というものを書いたものがあるのかな、と思う。
自分や身内を傷つけないために、とか、イメージ、とかでオブラートに包まれたものが大半、なのではないかなと私は思う。
家族会や勉強会に足を運べば真実に触れるチャンスもあるが、そのような余裕を持てる介護者がどの程度いるのか私からはあまり見えないし、外出する時間を取ることすら難しいという人に私はよく出会う。
ネットのノウハウ情報は、あまり役に立たない。
フィルターがかかっていて真実は私には見えてこない。
これを書いている私の文章すら、私というフィルターがかかっているので本当に真実、とは言えない。
けれど、どんな体験をした、という事実だけを述べていくという作業は、自分の心の癒しでもあり、もしかしたらそんなことがあったのかという情報にもなる。
自分が納得する範囲で、だけれど、書いていけたらと思う。
愛するということ
まるでエーリッヒ・フロムの本の題名。
老いていくこと。
デーサービスとか介護サービスを受けることになったとしたら。
万が一行くんなら、美味しいご飯のおしゃれしてみんなが集まるとこに行きたい。
もし、老人ホームに行かなきゃなんないなら。
素敵なカフェがあるとこがいい。
ヨーロッパの街角にあるよなやつ。
とにかく自由なとこがいい。
病院みたいだったり、子供扱いされるのは嫌。
死なないことに執着はしたくはない。
若くある、ということにも。
死はひたひたと静かに側にやってくることも知ってるし、若いことは単に外見ではないことも知ってる。
生き生きと美しく、若々しいのがいい。
死があることで、今を大切に生きようともするのだし。
それでもって。
生き生きと美しく若々しいまま、笑いながらこの世を去りたい。
例えば。
パートナーにハグされながら、君は本当にかわいい人だねぇなんて言われてニッコリした次の瞬間、死んじゃった、なんてのがいい。
もしかしたら、言葉もなく、ただお互いニッコリかもしれないし。
生き生きと美しい人はたくさんの愛と笑顔を提供してきたのだ。
そして愛を知ってるのだ。
だから生き生きとして美しいのだ。
愛って。
愛することを知ることで愛をもらってることに気がつけるのだ。
愛そうとして愛するわけでもなく。
自らが愛したい時にオートマチックに愛しちゃうもんなのだ。
理由なんて自分だってわからない。
魂が感じるままに愛してるのだ。
愛してると思った時には愛したらいいのだ、遠慮なく。
そんなもんだ。
根拠も何もなく、愛という形のない、枯れることのないものをただ表したらいいのだ。
自分の愛を信頼して。
自分が愛したいものを愛する、それだけだ。
相手に合わせたり、何かをあげることともちがう。
ただただ、愛する。
ただただ、愛する。
そして、愛してる人に愛されたらただただ喜んで受け取る。ただただ受け取る。
それだけのこと。
だと思う。